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タヒチ養殖真珠のはじまり
タヒチの真珠!!島々の魂、ポリネシアの宝石!!
人間と真珠の恋の物語はずっと昔から始まり、永久に続く幸福のように思われます。真珠貝が真珠をつくり出すことは知っていましたが、どんな巧妙な手順を経て、真珠がうまれるのかは分かりませんでした。潜水夫は何時間も真珠を抱いている貝を探し求めました。何千という貝が陸に引き揚げられ、やっとひと粒の真珠が見つかるか見つからないかという状態でした。痩せた小粒の天然真珠の時代です。
西洋世界では昔からずっとその文化において、宝石や真珠に絶大なる価値を見い出してきましたが、オセアニアの人々がこの海の宝石、真珠に価値を置くのは西洋から船乗り達がやってくるようになってからです。ポマレの王女は真珠をビ-玉遊びに使っていた、、、というのは言い過ぎの感がありますが、この時代、オセアニアには真珠をくっつけたり、つないだりするする適当な材料、細かい作業のできる道具などが日常生活には存在しなかったことは確かです。
初期の養殖真珠
一番最初に移植手術を行って、養殖真珠をつくりだしたのは中国人だと言われ、13世紀に遡りますが、初めにマベという養殖真珠を収穫したのは1893年7月11日、日本の英虞湾ででした。歴史家の見解はこの芸術の生みの親は1904年日本人、三瀬辰平に帰するということで一致しています。しかしながら、本物の円形の養殖真珠づくりに成功した西川が挿核施術の発明者です。1907年に三瀬と西川は認可を求める手続きをしました。そして1908年ミキモトが特許を申請し、この3段階の出生証明書は真珠の世界に革命を引き起こしました。ミキモトは「あこや」という白真珠の発明者、生産者として特許を得ました。ミキモトの技術は、しかしながら、かなり古風なものでした。人工核を真珠層の繊維組織でくるみ、それをそのまま、もうひとつの貝に入れるというものでした。
この技術ですと真珠貝に与える苦痛、負担はかなり大きなものになります。それで、後に三瀬と西川の考え出した技術のほうが採 pされることになります。二人の方法は核と刻んだ外套膜だけを貝に挿入させるやり方で、貝への負担が少なくなります。
このテクニックを完全に習得し、秘蔵のもとしたため、パンクタダ
マルガリティフェラに関して日本人技術者は世界的に認められ、ほとんど日本人の技術者しかいないという状況が19080年代まで続きました。
潜水の時代
すっと昔からポリネシア人、タヒチ人はツアモツ諸島などでパンクタダ
マルガリティフェラを海中に潜って採取し、その真珠層を貝ボタン、嵌め込み細工、木工細工、楽器のキーなどに使用してきました。また装飾用品としても用いられ、その昔、儀式用の装身具には大きな真珠層を磨きあげたものが付けられていました。時々、黒真珠を見い出すことがありました。しかし、それは非常に稀なことで15,000個に1個という割合でした。これは痩せた小粒真珠です。
実際、ずっとその時代、人々は真珠貝に興味を持っていましたが、それはその中に黒真珠があるからではなく、真珠貝の貝殻の内側の美しさのためでした。
19世紀の初めから大がかりな真珠貝採取が行われました。歴史家によると、19世紀の初めには浅瀬に真珠貝がたくさんあり、そこを歩くと貝で足を切るほどであったのに、1900年にはかなり海中深くに潜水しなくては満足な大きさの貝が採取できなくなったそうです。需要は増大し、航海船の数もサンフランシスコ、バルパライソ、シドニー間の運行頻度も何十年の間増え続け、まったくの無秩序の中で自然の蓄えを管理する者もなく、真珠貝の数の減少は驚くべき速さで進みました。
1957年、プラスティックや他の合成物質が発明され、真珠の潜水採取に警鐘を鳴らしはじめました。
養殖真珠 その初期の困難
フレンチポリネシアでの真珠養殖業はわりに新しいものです。1970年代に始まり、その当時、養殖真珠は黒真珠と呼ばれました。今日、我々の真珠を養殖真珠、黒真珠と呼んだりするその由来はこの時期に発し、海の宝石、真珠が今日あるのはパイオニアたちのおかげです。
1963年、フランスの獣医で、タヒチ漁業課係長だったジャン
ドマール氏は日本へ行き、60年代当時の日本の黒真珠の挿核施術習得に取り組みました。そうして黒真珠の養殖を目指し、パンクタダ マルガリティフェ
ラへの挿核施術を試みましたが、失敗に失敗を重ねてしまいました。そこで複数のオーストラリアの技術者、それに日本人技術者を一人をヒクエルやボラボラに送り込みました。そうして2年後、すばらしい真珠が出来上がったのです。
1967年宝石商として有名なジャック
ロゼンタル氏は、漁業課でつくり出された真珠を見てから、オーストラリアの生物学者ウィリアム
リード氏を雇い、ツアモツ諸島のマニヒ環礁で真珠養殖場の将来性に関して調査研究を行いました。リード氏は現存する真珠貝だけでは需要を補うことが出来ないと考え、小胎貝の採集、飼育を勧めました。1973年、ウィリアム
リード氏は自らガンビエ諸島のマンガレバ島に真珠養殖の会社を設立しました。今、世界一の養殖真珠の生産を誇るロバート ウォン氏が1975年にこの会社を買いました。
マヒニ真珠養殖場:パイオニア!!
地元の新聞記者、ココ シェイズはハーフパールの生産をドマール氏と始めました。当時、ココ
シェイズはマニヒに住み、1年後には大平洋の黒真珠の生産に成功します。その時、パリ宝石商のロザンタル家がジャンドマール氏の真珠を見い出し、ロザンタル氏はアメリカの宝石研究所や有数の宝石商に宝石としてこの真珠を認可させました。ポリネシアで初めての真珠養殖場。ここから真珠のアバンチュールが始まります!!
この時代、エア ガボン社の創始者、ジャンクロード
ブルイエ氏はツアモツ諸島のマルテアに自分の真珠養殖場を設立しました。ジャン
ドマール氏は1963年に挿核施術を試み、1965年に黒真珠を生産しましたが、その在庫をブルイエ氏は地元政府から買い取りました。ブルイエ氏は黒真珠は何の価値もないという噂を聞いていました。何の価値もないのはつまりこういった商品の市場がなかったからなのです。パリ、ロンドン、東京、ニューヨークの大きな宝石店へ黒真珠の見本を持ち込み、彼は世界中を駆け回りました。それは「あわれな失敗」でした。後に彼の著書の中で、パリのカルチェの社長に会った時の屈辱的な経験を語っています。「社長は机の上の真珠を見て、微笑むと、子どものように真珠で遊び始めたのでした。明らかにとても楽しそうでしたよ!もちろん、わたしは違いましたよ!」
後にブルイエ氏はニューヨークの宝石商で真珠を取り扱うサルバドール
アサエル氏に出会います。アサエル氏は黒真珠をアメリカ合衆国やフランスの有名な宝石店へ売り込むことにします。こうした彼等の努力によって、南の海の宝石、黒真珠はパリのヴァンドーム広場の宝石店やマンハッタンの宝石店など世界有数の宝石店のウィンドウにお目見えするようになったのでした。こうして黒真珠市場が発展し始めました。ブルイエ氏は自分の会社をロベール
ウォン氏に売ってしまいましたが、ブルイエ氏はアサエル氏といっしょに黒真珠をアメリカ市場に売り込み続けました。
クック諸島の真珠養殖に貢献したジャンポール ランティルハック医師、ポール
ユ氏、ジャンピエールフルカード氏、ジャン タブ氏、イヴ
チャンパン氏の名前も忘れずに明記したいと思います。
真珠養殖とその環境への影響
1978年初めに生産されたのはわずか2 Lロ足らずの真珠でしたが、現在、黒真珠の主な生産、輸出はフレンチポリネシアで行われ、真珠の世界市場の大部分を操作しています。
タヒチ真珠の養殖はツアモツ諸島をはじめ、他の島々の環礁を生き返らせました。技術面で試行錯誤をした時期もありましたが、黒真珠の相場も上がり始め、徐々に黒真珠の価値は認められはじめました。
現在、フレンチポリネシアでは真珠養殖または小胎貝の採取に携わって生計を立てているタヒチ人は何千人にものぼります。ツアモツ諸島、ガンビエ諸島ではおおよそ35島で真珠養殖が行われていますが、島の4分の3の人々が真珠養殖の仕事をしています。つまり、真珠養殖の仕事は野外で行われ、町の喧噪から離れた静かな環境で、漁業や潜水をしてきたタヒチ人々にまさに格好の仕事となったのでした。
小規模な職人気質の真珠養殖の多くは家族経営で、家族には給料がないのです。それで、こうした家族経営者の多くは、むしろ小胎貝の採取に力を入れ、これを大規模の真珠養殖者が買い入れにくるのです。真珠養殖のおかげでツアモツ諸島やガンビエ諸島の人々がタヒチへ移住する傾向を阻止することが出来ました。たとえば、1988年から1996年にかけてガンビエ諸島の人口は75%も増えました。同じこの8年間にツアモツ諸島の島々では驚異的な人口増加を記録しました。カウヘイ島191%、マニヒ島79%、ランギロア島46%、タカポト島31%、タカロア島23%といった具合です。
かつては真珠貝の採取は貝ボタン、嵌め込み細工などの材料のためで、黒真珠はその際、偶然見つかればしめたものというほどでした。ですから養殖場ができると、人々の生活水準はずっとよくなりました。養殖真珠のないフレンチポリネシアを誰が今日想像できるでしょう?想像不可能です。ポリネシアの人々もそしてタヒチ真珠を今身につけている女性達も想像できないでしょう。
養殖の黒真珠は今やめずらしく高価で少数の人々だけが手に入れられるものではなくなりました。もっと多くの人々がこの宝石を手に入れられるようになりました。ここ何年かで価格が下がり、それによって量や質でも需要が増え、年々世界市場における株価も上昇しつつあります。
ポリネシアの海 繊細な宝石
世界にある425の環礁のうち、85がフレンチポリネシアにあります。その大部分の67の環礁はツアモツ諸島に集中しています。その大きさ、形は実に様々です。例えば、その面積が何平方キロメートルしかないものもあれば、1000平方キロメートルになるものもあります。そして礁湖も環礁の2%から92%と様々で、深さも2メートルから深いものになると60メートルあります。45の環礁は水路がありませんが、10の環礁はその中に水路がいくつもあります。
礁湖、ポリネシアの宝石
礁湖と海洋は暗礁で区切られていますが、暗礁の上は小島になっていて、これをタヒチ語ではモツといいます。水路は礁湖と海洋の海水の行き来を可能にしていますが、この水路が浅かったり、船で通れる場合、ホアと呼んでいます。この水路があるおかげで、潮の満干に合わせて、また波のうねりによって礁湖の水の入れ替えが可能になっています。この水路を通って、様々な魚がその生涯の一部を礁湖で過ごします。礁湖の開通度によってその物理的化学的特徴が海洋の特徴とは違って来ます。
サンゴ礁はいわば海洋のエコシステムで、非常に多種多様の生物が生息しています。その豊かさは熱帯原始林のエコシステムと比較しうるもので、生物の成す偉大で堅固な永続性のある建造物といえるでしょう。
真珠養殖場、自然環境にあたえるインパクト
真珠養殖業者は自然環境を保護し、野生の真珠貝の繁殖を促す努力をしなければなりません。
タヒチ真珠の養殖業は比較的新しいものであることから、養殖場が自然環境にあたえる長期的なインパクトに関する科学的データ、知識がまだ十分ではありません。しかしながら、転移の問題は注目に値するものです。というのも島から島へと真珠貝の病気が伝染し、それがひいては環礁から環礁
へと病気を伝染させる可能性が指摘されているからです。また転移現象はパンクタダマルガリティフェラの遺伝多様性を減少させています。
未来は私達の手の中に
然が生み出す宝石、真珠が危機にさらされているとしたら、わたしたち皆が真珠を生み出す海を守らなければなりません。将来も人々が南大平洋の青い大きな海原でフレンチポリネシアの真珠、サンゴの美しさに感嘆できるような環境を守っていかなければなりません。
タヒチの真珠!!生きている宝石!! 真珠万歳!!
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